昨日は娘と1日マンハッタンに出かけていました。その道中、地下鉄の車内での出来事です。
反対方面の電車に乗ってしまったわ!
その日、私たちは1日中歩き、ようやく座ることができた帰りの地下鉄の車内でボーっと座っていました。次の駅に着いた時、正面の席の女性の声がしました。
「ああ、あなたはここに座りたいんですね、どうぞ!」
そう言って席を立った40代くらいの女性。空けられた席に疲れた様子の年配女性が座り込みます。なんだか疲れた表情です。
座ってしばらくすると、正面の路線図のパネル表示を見ていたらしいその年配女性が言いました。
「Oh my god!! 私は反対方面に乗ってしまったみたいだわ!」
悲嘆を隠さない表情。彼女の心配そうな顔はみるみる曇り、泣き出してしまいました。それまで長旅だったのか、ようやく地下鉄に乗って席まで譲ってもらって座ったのに…という感じです。
顔を見合わせる40代女性と連れの男性。その後のやり取りは以下の通り。
40代女性「(連れの男性に小声で)じゃあ、次の駅で降りて乗り換えるべきよね?」
連れの男性「ああ、そうだね、それがいいだろう。」
40代女性「次の駅で反対方面に乗れば良いと思いますよ。」
年配女性「(悲嘆にくれながら)無言」
その後、2駅ほど停車しましたが、年配女性は思考停止状態に陥ったのか、席を動くことができないようです。そこで、40代女性が再び話しかけます。
40代女性「あの・・・、あなたが行きたかったのはどこですか?」
年配女性「(少し間が空いて)〇〇丁目に行きたいんです。」
40代女性「(スマホを調べながら)あら?〇〇という駅はないわ。△△ならあるんだけど(両者は2ブロック違い)。」
年配女性「(パニックで答えられない)・・・。また泣きそうになる」
40代女性「悪いことは言わないのですが、ねぇ、降りてから、Cab(タクシー)に乗ったらどうでしょう?」
年配女性「私、40年ぶりに地下鉄に乗ったの・・・。」
(40代女性、連れの男性と顔を見合わせる。私、娘と顔を見合わせる。)
40代女性「とにかく、私は次の23rdで降りるから、反対ホームまでご一緒しましょう。そして、△△から〇〇まで2ブロック歩けばいいと思いますよ。」
連れの男性「それが良いですよ。えーとその駅のホームは・・・(とスマホを調べる)」
しばらくして、年配女性、落ち着いたのか、「わかったわ、そこで降りるわ。」と言います。ホッとした表情の40代女性。
そして、その次の駅で無事二人の女性が降りていきました。年配女性、降りる時には不安は拭い去られないまでも、同行してくれることで安心したのか、もう泣いてはいませんでした。
あら?「連れの男性」は車内に残っています。そうか、この男性と40代女性は電車で偶然乗り合わせた、赤の他人だったのですね。
日本だったらスルーされること?
同じことが日本で起きたとしたら、どうだったでしょうか?
恐らく、この年配女性のように「困ったわ!どうしよう!」という感情をストレートに露わにすることはないでしょうし、余程聞かれでもしない限り、40代女性や男性のように、おせっかいを焼いてヘルプするということは起こりにくいのではないかと思います。恐らく、電車を間違って困っていたとしても、多くの人は、自分で解決しようとするでしょうし、「赤の他人」に頼ろうとはしないでしょう。
以前私が電車内で急に咳き込んで気まずくなってしまった時、隣の女性がそっとキャンディーをくれた話や、具合が悪くなり、車内で戻してしまった女性に対し、周囲が協力して手を差し伸べた話を書きましたが、こんな感じでアメリカは本当に見ず知らずの人が、良い意味で「おせっかい」を焼き、勝手に物事が解決していくような文化があります。
今回のことは「ちょっとしたトラブル」ですが、アメリカに住んでいて、何度もふとしたことをきっかけに助け合ったり、おしゃべりに花が咲いたり、というやりとりを見てきました。
例えばカフェで「私のヘッドフォンが壊れてしまったのですが、ここを引っ張ってもらえますか?」と頼み、気づいたらそれをきっかけに延々と話し込んでいる若者と家族連れ。
朝の通勤電車で、(2人掛けの手前の席に座る人に)席を立って奥の座席に座らせてもらったことをきっかけに話し込む他人同士。普通は席を立ってもらうのは気が引けるから、と遠慮して声を掛けない人も多いのですが、さらにお喋りにまで発展しているのはすごいな、と思います。
こんな風に、日本にいたら「きっと絡むことはない人たち同士」が偶然に触れ合い、当たり前のようにコミュニケーションしていることに、毎回驚かされます。同時に、そのコミュ力というか、すぐに人と打ち解けたり、仲良くなったりすることに感心し、羨ましく思うこともしばしばです。私たち日本人も、普段から人とこんな風に気軽に話すことができれば、もっと人との距離が縮まるだろうし、対人折衝力も上がるのだろうな、と思います。
「おせっかい」は発信力向上のカギ
現在私は、自分も含めた日本人の課題の一つとして、「スピーチ力の向上」を目標に色々取り組もうとしているところです。多くの日本人が「人前で話すこと」を苦手とする理由の一つに、圧倒的なアウトプットの機会が少ないということを感じます。これは日本とアメリカの学校教育の違いもあるのですが、今日書いたような、日常生活での人とのやり取りの違いも影響が大きいです。これは「文化の違い」としか言いようがないですが、日本は絶対的な人との会話量、やり取りの量が少ないのです。
これは言語化することのほかに、非言語のものも含まれます。例えば、ドアを開けた時、後ろの人のためにドアを押さえて待っていること、道で歩行しようとする人がいたら、信号が青でなくても車側が停車して待っていること、この文化は残念ながら諸外国と比較すると、日本ではあまり根付いていないと感じます。非言語のものでも、会釈したり、手を上げたり、ちょっとしたコミュニケーションが介在します。恐らく、日本人は人との接触、やり取りを「億劫」とする傾向にあるから、そんな非言語のコミュニケーションも無意識に避けているではないでしょうか。
では、そんな「億劫さ」を感じてしまう、私たちにできることは何でしょうか?
それは、少しずつ、人との接触機会を増やすこと、そして、少しずつ会話をプラスしていく勇気を持つことかと思います。たとえば、普段の挨拶の後に「プラスのひとこと」を追加してみるのはどうでしょうか?「ありがとう」の後に「前回美味しかったからまた来たんですよ」とか、「お疲れ様でした」の後に「今日この仕事を〇〇さんがとても上手にやってくれて、助かりました!」とか。あるいは、ドアを押さえてくれる人がいたら、ニコッと「ありがとうございます」と声に出してみる・・・。
そうすると、言われた方も、また「ひとこと」返したくなります。こうして、単なる「出来事」が「出来事」のままで終わらず、気づきや行動に進化したり、そこから新たな出来事に発展したりします。当然、言葉を発することで言語化力もアップしますし、それにより自分の話せるネタも増えていく、と良いことづくめなわけなのです。
こんな風に、人と「あと少しだけ」積極的に関わることで、多くの気づき、行動が生まれ、結果として、より多くのことを考え、発信できるようになります。最初は少し億劫に感じるかもしれませんが、アメリカ人の「おせっかい」を少しだけ真似して、人との接触機会を増やしてみませんか?
昨日の地下鉄の車内での出来事を思い出しながら、こんなことを考えていました。今までは何となく、観察していましたが、改めて「発信力」という観点でアメリカ人の行動を観察していると、色々とヒントになることがありそうです。
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