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原体験を振り返ろう(その3)~自分の夢、叶えたかったこと(フランス、育児編)

前回は私が「海外に出たい、繋がりたい」と思っていたことについて書きました。その続きとして、フランスでの初めての駐在生活のこと、その後の育児生活について書きます。

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半人前?の私

20代最後の年に初めて海外駐在でパリに行きました。仕事はそれなりに大変でした。駐在数日でフランス人ばかりの会議に出席し、意見を求められて発言する上司の姿を見て、「自分はとてもこんな風にできない」と焦って頭が真っ白になりました。フランス人と日本人のスタッフがいましたが、彼女たちより年下の自分が、仕事の指示をしなくてはいけない、でもフランス語も彼女たちに比べると十分ではない、そんな引け目を感じながら、恐る恐るのスタートでした。

でも、ある時、当時一緒に仕事をしていた先輩に、「どうしたら、(プレッシャーを感じず)大丈夫になるんですか?」と聞いた時、「俺だって今でも大丈夫じゃないよ。」という言葉を聞いて、「別に気にしなくても良いのか」とスッと肩の力が抜けました。大切なのは語学よりも、仕事の中身を理解して、伝えること、指示すること、本社との間に入って業務を回していくことの方でした。

留学時代も、その後にもパリには何度か来たことがあったのですが、実際に「駐在員」として来てみると、お昼はオペラ座界隈の日本食通りで定食やラーメンを食べたり、かなり、日本の「ザ・サラリーマン」な日々を送ることも多かったです。当時社内では自分が一番年下でしたが、同年代の出向者がいたり、先輩たちも比較的年が近く、アフターファイブに色々なところに遊びに行ったのも、学生時代を思い出すようで楽しかったです。

仕事関係で色々な業界の人と知り合ったり、フランスの地方に出張に行き、各地方の特色を知ることができたのも刺激的で、日本では経験できないことでした。

休んでも仕事は回る?

フランスで仕事をする上で驚いたのが、フランス人のバカンスとの付き合い方です。人一倍バカンスを大事にするフランス人。夏には3、4週間の休暇を取る人もざらです。当初は「こんなに休暇を取って仕事が回るのか」と不思議に思いましたが、バカンス前の彼らの集中力には目を見張るものがありました。多くのタスクが残っていても、何とかやってのける姿を何度も目にしました。そして、バカンスから戻ると、何事もなかったかのように仕事に戻るのです。まさに「バカンス・マジック」と呼ぶべき光景でした。

最初の年は半信半疑でしたが、数年後は「何とかなる」ことを実感。この経験から、私は「たくさん休んじゃダメ」という考えに疑問を持つようになりました。日本での働き方を見直すきっかけになったのです。「少しくらい休んでも世界は回る」し「自分がいないとダメ」というのは自分の思い込みに過ぎないのだな、ということにも気づかされました。

このままで終わりたくない

3年半ほどして帰国することになり、フランスを後にしました。初めての駐在生活は楽しかったですが、何もかも初めてのことが多く、正直、仕事でもプライベートでも自分を半人前だな、と感じることが多かったです。何もかも、「これから」と感じていましたので、少し中途半端な気持ちのまま帰国しました。

本当は、私は入社した当時「一度でも海外駐在ができたら、もう満足。辞めてもいい」なんてことを考えていました。そのくらい、海外に出るのは遠い先のことだと思っていたし、一度夢が叶ったら、それで満足すると思っていました。

でも、実際はそうではありませんでした。「海外に出るという夢」こそ叶いましたが、それだけで満足することはできませんでした。いざ達成してみると、「全然、物足りない、もっと上を目指したい」という欠乏感が生まれました。この程度の「半人前」の自分のままで終わりたくない、と思ったのです。

また、途中で結婚しましたが、向こうでは独り身でしたので、家族単位で食事をしたり、バカンスを過ごす人たちを見て、自分はどこか欠けているような感覚がありました。一人でも楽しいけれど、家族で過ごしたらもっと楽しいのかな?という憧れがあったのです。なので、「今度はもっと一人前になって、家族で戻って来たいな」と感じていました。こうして、私の1回目の駐在は終わりを告げました。

理想と現実

日本に帰国後はしばらく東京の本社で働きました。夫との二人暮らしは気ままで楽しい日々でした。平日は二人とも帰りが遅かったけれど、休日は色々なところに食べ歩いたり、旅行に行ったりしました。その後息子が生まれ、初めての育児休暇を1年取りました。

夢のように自由な産前休暇を経て、願っていたはずの子どものいる生活でしたが、産後しばらくは落ち込む日々でした。出産前に思い描いていた、「優雅な優しいお母さん」をする余裕は全く、ありませんでした。理想と現実との違いに打ちのめされ、いつも孤独感と焦燥感を感じてました。今思うと「なぜ、あんなに思い詰めていたんだろう?」と思いますが、産後の女性というのは多かれ少なかれ、不安定になるもののようです。

でも、当時はそんな知識もなかったし、「きっと子育ては余裕で楽しめるに違いない」という勝手な思い込みと現実とのギャップに苦しむ日々でした。自分は仕事をやってきたんだし、家にいて育児「だけに」専念できるなんて、ラッキーだと思わなくちゃ!という思い込みがあったのでしょう。

でも、現実はそんなに甘いものではなかったんです。赤ちゃんのお世話の仕方もよくわからないし、抱っこをしても泣いてしまう我が子を見て、情けなくて自分が泣いてしまうこともありました。そんな日々でしたが、少しずつ家族や、知り合いを頼ったり、勇気を出してママ友を作ったり、大よそ4ヶ月ほどでその状況を抜け出したように思います。

地震とワンオペ生活

その後職場復帰、保育園に子供を通わせながらのワーキングマザー生活を経験しました。数年後、娘も生まれ、もうすぐ1年というタイミングで、夫の福島への転勤が決まりました。当時私と子供たちも、娘の2歳の誕生日まで1年間ほどは一緒に現地で生活するはずで、事前に家探しや息子の幼稚園も探していました。

そして、月末には出発、という娘の1歳の誕生日の日、東日本大震災が起こりました。当日、誕生日ケーキを手に「なんていう日になったのだろう」と26階の我が家まで、ヒーヒー言いながら、階段を上ったことが思い出されます。

このことがあってから、私たち家族の福島行きは中止になりました。私は予定を1年早めて職場復帰をしました。夫は予定より少し遅れて、東北新幹線の復旧と共に旅立っていきました。当時はまだ余震が残る中、一人で現地に渡るのは大の大人とは言え、心細かったことと思います。

幸い娘も兄と同じ保育園に預けることができ、私は2人の育児をしながら平日は今で言う「ワンオペ育児」が始まりました。夫は毎週末新幹線で帰って来てくれていましたし、この生活は結果的に3年7ヶ月もの間続きました。平日は福島、毎週末は東京という生活は地元に落ち着く間もなく、相当大変だったことと思います。

夫だけでなく、当時山梨に住んでいた母も月に1回は泊りがけで手伝いに来てくれていましたし、伯父夫妻も実の孫のように子供たちを可愛がってくれていました。私にはこうした有難い助けがいくつかありましたが、当時の私は必死過ぎて、それを労ったり、心から感謝する余裕がありませんでした。

そればかりか、送り迎えを夫婦で分担できる人や、お風呂や寝かしつけを旦那さんが手伝ってくれる人が羨ましくてなりませんでした。出勤の電車の中、お昼休み、そして子供たちが寝た後の時間、が自分だけのものでした。この時が人生で一番「時間が欲しい」と感じていた頃だと思います。常に精神的にも体力的にも疲れており、毎週末、夫が金曜夜に帰って来てはホッとし、福島に帰る日曜の夜は憂鬱でした。まさに「サザエさん症候群」を地で感じていました。

普段は定時で仕事を終え、保育園に直行する毎日。一方で、同じ職場でも出張や企業訪問に出かける後輩たちの姿が眩しく見えたものです。完全なる「無い物ねだり」でしたし、今思えば、時間制限がある中でも、デスクワークだけでなく、もっと外と繋がる方法はあったのかもしれません。でも当時は、子育てと引き換えに自由に仕事をする権利を失ったような気がしていました。

そんな生活を4年弱年続けた頃、今度は夫にサンフランシスコ転勤の話が来ました。夫が前回パリから帰国して以来、12年もの年月が経っていました。
続きはこちら。

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この記事を書いた人

米・ニューヨーク在住。ストーリーを使った「ストーリートーキングⓇ講座」認定講師。スピーチコミュニティ「伝わる!スピーチ道場」主宰。
こちらのブログでは「ストーリーテリング」、「スピーチ」を中心に、書くことで人の強みを発掘し、話すことで相手の心を掴む話し方、をテーマに書いています。

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